文春砲と風向きの変化
いわゆる「文春砲」の餌食となった小室哲哉が音楽活動からの引退を表明しました。それがきっかけとなり、今回ばかりは週刊文春側が世間からの猛バッシングを浴びています。
paparacchi_man
週刊文春のTwitter公式アカウントには、批判コメントが殺到して炎上状態ですし、さらには、♯週刊文春を許さない とのハッシュタグが立ち、こちらも週刊文春への批判コメントで溢れかえっています。

私自身は、小室哲哉の音楽への関心は元々薄かったため、彼の引退に対してそれほど感慨はないですし、今回の件"だけ"で週刊文春を攻撃する気もあまりありません。ただ、以前から別の理由で文春を始めとする週刊誌の報道姿勢について苦々しく思っておりましたので、今回の猛バッシングについてはどちらかと言えば気持ち良く感じていると言うのが正直なところです。

一方で今回の文春へのバッシングに対して違和感も感じていて、ベッキーと川谷絵音の不倫の際には世間のバッシングは文春ではなく当事者の二人に向いていたわけで、今回の小室哲哉の件と著しくバランスが悪いように思えるのです。

これが例えば政治家の山尾志桜里の場合は、自身の不倫発覚の前に自民党議員の不倫を攻撃していたことから、そのダブルスタンダードぶりを世間から攻撃されるのはいたしかたないでしょう。おそらくベッキーの場合、世間が勝手に作った「清純派」と言うイメージとのギャップで世間からも攻撃を受けたのでしょうが、今回の小室哲哉に対する世間の反応とのギャップを考えると、ベッキーに対して同情を禁じえません。

・ここから本題~週刊文春のダブルスタンダード~
さて、以上はどちらかと言うと雑感以上のものでもなく、特に強く訴えたいことではありません。ここからが最も訴えたいことなのですが、文春を始めとする週刊誌に対して、私がもっとも批判したいことについてです。

それは「作家タブー」を始めとした、彼らの報道姿勢に対するダブルスタンダードについてです。

彼らは、ベッキーや小室哲哉のような比較的弱い立場の芸能人に対しては、平気でそのプライバシーを踏みにじりますが、「強い者」に対しては途端に弱腰になっているように見えます。それこそが最大の問題だと思うのです。

例えば、こちらのリテラと言うサイトは、全体的に偏向した内容なので話半分で読む必要がありますが、そこで紹介されている作家林真理子のコメントは、まさに林真理子が実際に(しかも当の週刊文春に!)書いた内容なので偏向フィルターはかかっていません。林真理子が「作家タブー」の存在を、文春誌上で堂々と語っているのです。
引用します(林真子理子のコメントは青字部分)
林氏は3月31日発売号(4月7日号)の連載で「週刊文春」の快進撃を「すごいぞ、センスブ」と賞賛し、こんなエピソードを開陳した。
〈この頃有名人に会うたび、よく聞かれる。
「どうしたら、センテンス・スプリングに書かれないようになりますかね?」
「ひとつだけありますよ」
 私は答える。
「センテンス・スプリングの執筆者になることですね」〉

 たしかに、「週刊文春」は、林氏が述べるように作家には極端に弱い。大手芸能プロダクションや政治家にはあれだけ強気なのに、相手が小説家、作家となると、どんな疑惑やスキャンダルが浮上していても沈黙を決め込んでしまうのだ。いや、それどころか、逆に作家の意を受けて記事を潰したり、不祥事隠しに奔走する役割まで平気で演じている。
さらには、リテラとは主張の大きく異なる池田信夫氏も、作家タブーの存在を紹介しています
これが今週の週刊新潮と文春の中吊り広告だ。「うぬぼれ自民党」やら「自民党は死んだ」などの派手な見出しはあっても、騒ぎの発端になった百田尚樹氏の名前はどこにもない。彼は新潮社からも文藝春秋からも本を出しているミリオンセラー作家だからである。昨今は『殉愛』をめぐるスキャンダルで社会的評価は地に落ちたが、「売れる作家」であることは間違いない。
特に週刊誌が作家のスキャンダルを書かないタブーは徹底していて、編集者と飲むとよく出てくるのは五木寛之氏の「金沢で雪を見よう」という有名なナンパ癖だが、彼の女性問題が記事になったことはない。
確かに、作家の皆さんが、色々な面で自由な恋愛を経験されているであろうことは、作品からも見てとれます。それでも週刊誌で作家の不倫疑惑が報じられたことなど全く記憶にありませんから、「作家タブー」の存在を肯定する状況証拠はあっても、否定する材料など全くないわけです。

さらなるダブルスタンダードとしては、芸能人の不倫を「けしからん」と言う姿勢で報道しながら、自分たちは下記のような不倫を肯定するような本を堂々と出版しているわけですから、マッチポンプとの批判も受けてしかるべきでしょう。

ひとひらの雪〈上〉 (文春文庫)
渡辺 淳一
文藝春秋
1986-11-10



私は、「言論統制」よりは「報道の自由」を尊重すべきと考えます。ベッキーにしろ小室哲哉にしろ、芸能人の不倫を騒ぎ立てる週刊誌が嫌いではありますが、その一方で、政治家も含めたスキャンダルが全く報道されない言論統制された世の中になるよりは、この種の報道の自由があるほうが「いくらかマシ」だと思うのです。

しかしながら、弱者のスキャンダルばかり報道して、強い者に怯えて同様のスキャンダルを報道しない状況は「最悪の中の最悪」です。週刊文春の「中の人」たちが、ジャーナリストとしての矜持を持っており、本来報道されるべきスキャンダルをタブーに負けずに報道してくれることを願っています。