昨日のエントリでは、選択的夫婦別姓の実現に向けて戦うサイボウズ青野社長に向けて、少々熱くなり過ぎた応援メッセージを書いてしまいました。今日のエントリでは、少し冷静になると同時に一歩下がった視点から、サイボウズ青野社長が起こした訴訟について語ってみたいと思います。

ただその前に、いっけん全く関係の無さそうな話をさせてください。

今から半世紀ほど前、それはまさにビートルズの初来日と重なる頃なのですが、
エレキギターを弾くと不良になるから、中学生や高校生がエレキギターを弾くのは禁止!
と言うことを、当時の大人達は真剣に考えて実践していたようです。今の時代の観点では悪い冗談としか思えないようなことなのですが、栃木県足利市の教育委員会が本当にそのような条例を制定し、それが全国に広がったと言うことが、こちらこちらに記されています。

一部記述を引用させていただきます。
教育委員会が若者の間で流行のエレキギターがシンナー遊びなどに結び付くとして、小中学校会で「小中学生はエレキをはじめジャズ楽器を買うこと、バンドを編成すること、エレキジャズ大会に参加することを一切禁止する」「テレビのエレキジャズ大会を見ないよう指導する」ことを申し合わせたというもの。さらに、高校生以上も対象としたエレキ追放一斉街頭補導の計画も発表された。青少年補導協議会が中心となり、旧市内だけでなく農村部の神社や公園、墓地、河原なども見て回るという徹底ぶりだった。

もう笑い話として読むしかありませんが、その時代では「禁止だ!」と叫んだ大人も、禁止され抵抗した若者も大真面目でした。年月が経ち、エレキギターを不良に結び付けることが無くなったことはもちろん、学校の部活動として行われたり、少なくない親達が子供にエレキギターを弾くことも勧めたりもしています。実は我が家でも子供たちにエレキギターを始めさせようとしたのですが、子供たちは残念ながら興味を示しませんでした。それはともかく、50年ほどで大人の考える悪いこと良いことの常識が50年ほどの間に大きく変わったことが見て取れます。

エレキギターの禁止はあくまで一例で、このような「その時代特有の理不尽な圧力」と言うものは、どのような時代にもあるものだと思います。例えば21世紀に入って15年以上過ぎた現代でも「高校生は黒い髪でないといけない」と圧力をかける大人は少なからずいるようですし、私が中高生だった時代は茶髪・金髪は今よりもずっと忌み嫌われていました。これもまた年月が経てば、国際化が進んで混血の同級生が普通にいて、生まれつき黒髪でない子供が普通にいるようになることで、「黒髪が真面目の象徴」などと言う価値観は、意味のないものになっていくことは確実です。

数十年スパンの歴史的な視点で見てみると、理不尽な圧力と言うものはごく自然に消えていくようにも見えます。しかしそれらの理不尽を消すために、その時代の無理解に果敢に戦いを挑んだ人たちがいた(いる)ことも見逃してはいけません。エレキギターへの無理解と闘ったのは寺内タケシですし、黒染め強要に対して訴訟を起こした女子高生も、そのような「時代の理不尽と闘う戦士」と言って良いでしょう。

理不尽が消え去った後の時代に生きる者達は、一つでも理不尽が無いぶんストレス無く生きられています。ところが理不尽の無いことがが当たり前過ぎて、そのために闘ってくれた人への感謝をすることは滅多にないのです。歴史を振り返って感謝をしても罰は当たらないですし、上記した女子高生のように、同時代で理不尽と闘う人がいれば応援しても良いのではないでしょうか。

前置きが随分長くなりましたが、もう分かっていただけたと思います。
「夫婦同姓の強要」も、間違いなく時代特有の理不尽です。
数十年と言うスパンで見れば、世界的な潮流からしても、将来にわたって夫婦に同姓を強要する制度が残っている可能性は極めて低いでしょう。50年後に振り返れば、「夫婦同姓の強要」も「エレキギター禁止」と同レベルの単なるお笑い話になるはずです。ただそれでも誰かが闘わないと、起こるべき変化もなかなか起きないことも事実なのです。人々の中の漠然としたら考えとしての理不尽ならともかく、一度制定された「法律」を変えることは、一般に多大な困難を伴います。さらに困ったことに、ほんの2年ほど前に「夫婦同姓の強要も憲法に反しない」と言う最高裁判決が出てしまったばかりです。

この状況下で選択的夫婦別姓を求めるのは普通に考えれば非常に困難な闘いとなりそうなのですが、サイボウズ青野社長作花弁護士は、実に賢く独創的なアプローチで訴訟をしかけました。これは第三者的な立場から「論戦を楽しむ」と言う点でも非常に興味深いアプローチです。

今日は既に長くなってしまいましたので、次のエントリにてそのユニークなアプローチを掘り下げてみたいと思います。

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