前回のエントリで、「『変えてはいけないこと』と『変えても良いこと』の見極めに成功したもう一つの事例を取り上げたい」と書きました。そのような例として思い浮かぶのは、(かなり古い話題で恐縮ですが)映画の「シン・ゴジラ」です。


まずこの映画、個人的には相当に思い入れが強く、公開当初の短い期間に2回も劇場に見に行ってしまいました。私にとって、「同じ映画を見に、2回も劇場に行く」というのは、全く初めての経験で、それくらい強く印象に残ったと言うことになります。そのように強く感銘を受けたのは、もちろん私だけでは無く、「シン・ゴジラ」について様々な人たちが論評を行っています。

私自身読んだわけではありませが、この映画を論じた本が何冊も出ていることでも分かるでしょう。


もちろん完璧な映画と言うわけでも無く批判的な論評も少なからずあり、こちらなどは理路整然と欠点を指摘し、反論・弁解の余地が見当たりません。

しかしそれでもなお、「シン・ゴジラ」が私も含めて多くの人達に強い感銘を残したことは否定しようも無く、さらには興行成績に於いても、大きく成功した日本映画だったと言うことは否定しようがありません。なぜ、ここまでの成功を収めることができたかと言うと・・・

「『変えてはいけないこと』と『変えても良いこと』の見極め」を正しく行ったから。

さらに言い換えると

「『変えてはいけないこと』と『変えなくてはいけないこと』の見極め」を正しく行ったから。

ではないかと考えるのです。

既に多くの人から語られていますが、「シン・ゴジラ」の場合、ベースにしたものは1954年公開の初代「ゴジラ」です。こちらも、日本映画の金字塔と言っても良いほどの名作ですし、半世紀以上が経過してなお、日本でだけでなくハリウッドも含めてその名前を冠した映画が作られ続けられるほど、多くの人達に影響を与えました。


私は初代ゴジラをリアルタイムで見られた世代ではありませんが、BSプレミアムで放送された時の録画ビデオは持っています。さすがに現代の基準でその映画を見ると突っ込みどころ満載で、このままでは現代の観客に感銘を与えることは出来ないでしょう。しかしながら、初代ゴジラが当時の人々に大きな影響を及ぼした「本質」さえうまく見極めて継承し、それ以外の部分を現代に合わせて大きく変えれば、まだまだ魅力的な作品はできます。

つまり、
「『変えてはいけないこと』と『変えなくてはいけないこと』の見極め」
を正しく行ったことが、「シン・ゴジラ」の成功要因だと思うのです。

ゴジラの「変えてはいけないこと」とは、何でしょう?
実は難しい問題です。

初代ゴジラを作った田中友幸(プロデューサー)や、円谷英二(特撮監督)本多猪四郎(監督と脚本)らが、「ゴジラの本質はこれだ!」と何かを残したわけではありませんし、おそらく作っている当時は「スゴい映画を作る」ことに必死で、「この映画の本質は何か?」などと考えてもいなかったかと思います。何十年も後の世の中を生きる我々が、考えるしかありませんが、「シン・ゴジラ」の成功の後の後知恵としては答えは出ているように思います。

それは
「現実の記憶に裏打ちされた生々しい恐怖と不安」
だったのではないでしょうか。

初代ゴジラが呼び起こした「現実の記憶」とは、言うまでもなく戦争と空襲です。初代ゴジラの公開は、終戦後10年も経っていない時であり、少なくとも東京などの都市部に住む人たちにとっては米軍の空襲によって火の海になった街の情景は、極めて生々しい現実の記憶だったのです。加えて、公開されたまさにその年にビキニ環礁の水爆実験が行われ、それに夜放射性下降物を日本の漁船第五福竜丸の乗組員が浴び、半年後に死亡すると言う事件も起きていました。記憶だけでなく、その時点で現在進行形の不安も大きかったのです。


このような記憶と不安を喚起すべく、ゴジラが東京を襲い街を火の海にするシーンは東京大空襲そのものですし、ゴジラそのものが水爆実験から生まれたと言う説明に加え、最終的にゴジラを倒す兵器そのものが「人類を滅ぼしかねない」ものであることも示唆しています。これらの表現は、当時の人たちの琴線にダイレクトに触れることになり、初代ゴジラは名作の地位を確固としたものにするのです。

ただそうは言っても、そのような生々しい経験と不安は、時が経つにつれて薄れていきます。1954年当時には空襲や水爆は生々しい記憶と不安でも、現代に生きる我々にとっては生々しさを失い「歴史の1ページ」となってしまっているのです。それは映画製作者側も同じだったはずで、シリーズを重ねるごとにこの「現実に裏打ちされた生々しい恐怖」の要素は薄まっていきました。ゴジラシリーズは初代の後にいくつも製作されましたが、初代ゴジラに並んで評価される素晴らしい作品が作られることはありませんでした。

しかしです!

不幸にも現代に生きる我々にも同じような恐怖の記憶が染み付いて離れなくなってしまいました。
言うまでもなく、あの3.11の震災に伴う恐怖の記憶です。さらには、原発事故に伴った放射能漏れへの不安や、未曾有の大災害に対応しきれない無能な政治家や国の制度に対する落胆は、現在進行形のものだと言えるでしょう。

シン・ゴジラは、現代に生きる我々が持つこのような経験と不安にまさに訴えかけました。ゴジラの上陸によって皮が逆流してボートなどが軽く流されてしまうシーンは、明らかに3.11の津波を思い起こさせるものですし、最初の上陸で散々に荒らされた鎌田付近の被害状況も、まさに津波の被害の後に残された瓦礫をイメージさせます。

さらには映画前半での政治家たちの対応は、震災に限らず普段から感じている日本の政治家たちに対する不満と不安をうまく表現していました。柄本明扮する官房長官が、ゴジラの尻尾が海面に現れた際に発した「中断!会議を一時中断します!テレビ!テレビ点けて!」と言うセリフが、危機に対処しきれない無能な政治家を象徴しています。「ヲイ、ヲイ、だったら何のために会議をやってんだ!」と突っ込みたくなった人は多かったのではないでしょうか。

このように、初代ゴジラとシン・ゴジラでは、状況や仕掛けこそ違えど、「観客の現実の記憶に裏打ちされた生々しい恐怖と不安に訴える」と言う点で、非常に近いことをやっているのです。

一方で、それ以外の部分では、21世紀に生きる我々に合わせて思い切って味付けを変えています。下記、初代ゴジラには無く、シン・ゴジラで加えられた(あるいは排除された)要素です。
  • 形態変化するゴジラ
  • 特に自衛隊の装備や国の制度における徹底したリアリティの追求
  • 分かりやすさを放棄し、リアリティ追求に寄った出演者達の超早口のセリフ
  • 恋愛や家族などの人間ドラマの排除
  • 謎解き要素の付加(エバンゲリオン的な要素)

長々と書きましたが、結局言いたいことは
シン・ゴジラは、初代ゴジラをベースに、
「『変えてはいけないこと』と『変えなくてはいけないこと』の見極めを完全に正しく行った故に成功した。」
と言うことです。

庵野秀明総監督、お見事です。感服しました!



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