さて、今日もまた昨日に続いて元日に放送されたNHKドラマ「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」についてです。

このエントリを書いているのは、ドラマ放映2日後の1月3日の夜ですが、現時点で視聴率のデータは公開されていません。一方で、TwitterやBlogなどのネットでの評価を見る限りは、賞賛する書き込みがほとんどのようでした。一部批判的なコメントがあったとしても、「90分では短か過ぎるから、大河ドラマで見たい」と言うような、高評価の裏返しのようなものくらいしか見つけることができず、原作マンガを知っている/いないに関わらず、ドラマを見た人達からの評価は相当に高かったようです。例えば、こちらの「エキレビ!」のレビューは、私も知らなかった裏情報なども紹介され、ドラマの魅力をさらに増してくれる素晴らしいレビューになっています。

(こちらのムックがネタ元のようですね。私も早速ポチ買いしました・・・)



マンガに限らず、何らかの原作を元にドラマや映画を作るのは中々に難しいことのはずです。原作を知らない人たちにも楽しめる内容にしないといけない一方で、原作ファンをも満足させないといけません。この二つの要件はしばしば二律背反しており、初めて見る人に背景や登場人物を分からせる説明が必要な一方で、時間の制約から十分な時間はかけられません。それによって原作の重要なエピソードを切り取る必要も出てきます。また、マンガと実写では表現できる範囲もテイストも大きく変わってきます。例えば、実写映画版の「進撃の巨人」などは、原作ファンから酷評されていたようです。

NHKドラマ版の「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」は、私も含めた原作マンガのファンからの評価が非常に高かったのですが、原作マンガとは様々な面で大きく変更されていたのにも関わらずそのような評価を受けているのが非常に興味深いところだと思います。

今日のエントリの主題でもある、「ドラマの成功要因」でもあるのですが、
「『変えてはいけないこと』と『変えても良いこと』の見極め」を正しく行ったから
風雲児たちのドラマは成功したのではないかと思うのです。

「『変えてはいけないこと』と『変えても良いこと』の見極め」と言うのは、ドラマや映画の製作に関わらず、非常に多くの分野で成功の鍵となることだと私は常々考えています。NHKドラマ「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」をその成功事例として考察してみましょう。

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さて、原作マンガの「風雲児たち」には、様々な魅力的な要素があります。それは例えば、歴史に対する新しい見方の提示であったり、登場人物たちの感動的な物語であったり、ギャグマンガとしての面白さだったりします。

私は3日前のエントリで、次のように書きました。
    原作の風雲児たちは、かなり真面目に史実を追求した歴史マンガであり、物語としても良くできていて涙を誘う感動もあるのですが、その本質は「ギャグマンガ」です。登場人物の誰かがボケをかますと、周囲がひっくり返ってズッコける表現があってこその風雲児たちなのです(キッパリ!)。ボケの中には、連載当時に流行していたギャグもあれば、ボケに対するツッコミには、マンガでこそ可能な暴力表現(日本刀でぶった切ったり、機関銃で撃ちまくったり etc.)も多々あるのです。
つまり私は、「風雲児たち」の『変えてはいけないこと』とはギャグマンガの要素であると考えていたのです。ところが、ドラマの脚本を書いた三谷幸喜は違う考えで取り組みました。ドラマでは、原作マンガのギャグ的要素は、ほぼ取り払われていたのです。もちろんあの見事なドラマを見た後では、私が間違っていて、三谷幸喜が正しかったことを認めざるをえません。(そんな比較をすること自体が、カリスマ脚本家に対して大変失礼であることは重々承知ですが、レトリックの一つとしてご容赦ください)

では、三谷幸喜が見出した「風雲児たち」の「変えてはいけない」本質とは何だったのでしょう?以下は、私の勝手な解釈です。
それは、「風雲児たち」の登場人物たち、つまりまさに”風雲児達”それぞれの「信念」を描くことでした。
「風雲児たち」には、歴史に大きな足跡を残した何人もの”風雲児達’が出てくるのですが、彼らが歴史に足跡を残せたのは、その強烈な、あまりにも強烈すぎる信念
(それらの中には、必ずしも偉大とは言えず、負の側面が多い足跡もありますが)があってこそなのです。

風雲児たちに限らず、幕末を描いた物語にはあまりにも多くの人物が登場し、それぞれが異なる信念を持っています。それらが反発し、時には協力し、時には妥協し、歴史が進行するわけですが、物語としては「誰が正しく、誰が間違っていた」のかが、非常に分かりにくいことも多くあります。小説・ドラマ・映画では、誰かを主人公にして感情移入させるために、それに敵対する人物は、徹底的に悪役(ヒール)として描かれます。長州藩の誰かを主人公とする物語では、幕府側が悪役になりますし、新撰組や会津藩を主人公にした物語では、ヒールになるのは長州藩です。物語としての分かりやすさ・面白さの点ではこれで良いのですが、歴史はそれほど単純なことではありません。
原作マンガの「風雲児たち」では、特定の主人公をあえて立てず、ともすると対立するような複数の登場人物の「信念」が、非常に丁寧に(かつギャグも忘れずに)描かれており、そこは原作マンガ「風雲児たち」ならではの魅力です。三谷幸喜は、その魅力を最大限活かすために、原作をさらにデフォルメして強調しました。

ドラマ「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」では、前野良沢と杉田玄白の二人の信念の対立を最大のテーマにしています。
  • 医学の進歩のために、一刻も早く解体新書を世に出したい杉田玄白
  • オランダ語の正しい翻訳にとことん拘る前野良沢
原作マンガでは、この二人は出版直後に早々にお互いを認め合って和解します。ドラマでは敢えて対立を強調するために、何十年も絶縁状態にあったように描かれていました。どちらが史実に近いのかと言う問題ではなく、原作の『変えてはいけないこと』を大事にするための演出として、これは正しい判断だったと思います。
おそらく史実としては、原作マンガのほうが正しいのではと推測しています。と言うのも、蘭学者大槻玄沢は、前野良沢・杉田玄白両者の弟子であり、二人の師匠の名前から一文字ずつ文字をとった名前を名乗っています。二人が絶縁状態であれば、大槻玄沢が玄沢と名乗ることはなかったでしょう。

前野良沢の信念も、杉田玄白の信念も、どちらが正しくてどちらが間違っているとは言えません。解体新書の場合は、一時的な対立はあったものの、二人それぞれの強い信念があってこそ、歴史に偉大な足跡を残しました。幕末頃になると、異なる信念のぶつかりあいで、大変な悲劇が生まれることもありますが、それはそれで歴史の足跡です。このような信念のぶつかりあいこそが、原作の「風雲児たち」の本質だと三谷幸喜と考えたのでしょう。ドラマを見て、私もそれに気付かされました。

「風雲児たち」について、連続してエントリを書いてきましたが、一旦これで一区切りつけたいと思います。次回では、「『変えてはいけないこと』と『変えても良いこと』の見極め」に成功した、もう一つの事例を取り上げたいと思います。

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2018年1月15日追記

正確な視聴率は、なかなか発表されませんね。ただ、ビデオリサーチから発表される週間視聴率ランキングによると、1月1日~1月7日までに放送されたドラマのうち、ベスト10には入っていないようでした。10位に入った、テレビ東京「三匹のおっさんスペシャル」の7.6%よりも下の数字だったようです。少々マニアックに過ぎましたかね。私自身も録画して視聴したので、視聴率には貢献できませんでしたが・・・・・

視聴率