注:このエントリを実際に執筆しているのは、2012年が明けてからのこと。ただし文章の構想を練っていたのは2011年末であり、時系列をすっきりさせるために、エントリの日付を2011年末とさせていただいた。 


2011年を振り返って何か語るのであれば、あの震災のことを避けて通ることはできない。私も震災発生時には東京都心にいて、被害は極めて小さかったがそれなりの影響は受けた。年月が経って記憶が薄れないうちに、体験したことと学んだことを、ここにまとめておきたい。

端的に結論を書いてしまうと、震災時に首都圏にいた人たちの中では、私は相当に恵まれていたほうだった。揺れの恐怖も感じなかったし、いわゆる帰宅難民にもならなかった。家族との連絡に多少苦労したが、比較的居心地のよいオフィスで一晩を過ごし、翌朝には普通に電車で帰宅することができた。

だがこれは、いくつかの偶然が重なった幸運であって、少なくとも帰宅難民になる可能性は十二分にあったし、家族を危険な目にあわせた可能性も否定できなかった。自分が地震などの自然災害に対してあまりに無頓着かつ無防備だったことを思い知ったのが、まず一つの教訓だったと言える。

このあまりの無防備さは、45年間の人生で災害らしい災害を経験したことがなかったことによるのかもしれない。とは言ってもこの無防備さは、おそらく私だけが特別なわけでなく、多くの人も同様なのではと勝手に推測している。私と同じように災害に対して無防備のかたが、このエントリを読んで、用心を高めてくれればこんな嬉しいことはない。



【私の過去の地震体験】
反省すべきは、過去に遡る。私が人生の大半を過ごした名古屋は、東京地区より遥かに地震が少ない。もちろん時折軽微な地震は来るが、恐怖を感じるような地震は、名古屋で生まれ育った37年間、まったく経験したことは無かった。

生まれて初めて地震に恐怖らしきものを感じたのは、名古屋から首都圏に引っ越した後のことだった。2005年7月23日(土)に発生した千葉県北西部地震のとき、私は当時借りていた木造二階建ての戸建で一人過ごしていた。土曜日で会社は休み。妻と長男は、長女の出産のために名古屋に帰省して不在だった。そんなタイミングでその(東日本大震災に比べればずっと小規模ではあるが)大きな地震はやってきた。

急激な揺れとともに、木造住宅がミシミシと軋み始めたことに随分と驚いたものだ。あまりに激しい軋み音で「家が崩れ落ちてくるのでは」との恐怖を感じ、ダイニングテーブルの下に必死で逃げ込んだことを記憶している。小学生の頃から地震の避難訓練で、机の下に避難する真似事は何度もしてきたが、本当に恐怖を感じて机の下に文字通り「逃げ込んだ」のは生まれて始めての経験だった。

ただしこの2005年の地震では、「瞬間的な恐怖」を感じただけで、私自身は直接的にしろ間接的にしろ全く被害を受けることはなかった。何かモノが壊れることもなかったし、電気・水道・ガスが止まることも無かった。通信に関して言えば、直後に名古屋の家族と連絡が取れたかどうかは、記憶にさえも残っていない。と言うことは、少なくともそれほど困る事態にはなっていなかったのだろう。世の中では公共交通機関が長時間に渡ってストップし、大量の帰宅難民が生じたらしいが、幸運なことに私は自宅に居て難を逃れた。

しかし今にして冷静に考えてみれば、普段は一日の半分以上を外出して過ごしている私にとって、地震発生時にたまたま自宅に居たのは、単に幸運なだけだったことが分かる。外出していれば、帰宅難民になっていたであろうし、家族が木造住宅にいたならば連絡の可否は死活問題になりかねなかった。このことを踏まえて、しっかり備えをしておくべきだったのだが、「喉元過ぎれば・・・」のごとく、特に対策らしい対策はすることはなかった。だからこそ、2005年のこの地震も、再度思い出してみる必要があると思うのだ。交通機関が止まるレベルの地震は、別に「100年に一度」ではなく、「数年に一度」はやってくる。そしてまさに「それ」がやってきたのが、2011年3月11日だった。しかも、規模を遥かに大きくして。



【2011年3月11日そのとき】
その時私は、Citrixが入居する「霞が関コモンゲート」の23階にて、10名ほどの販売パートナー様を相手に、Citrix製品のトレーニング講師を務めていた。
霞が関コモンゲート

講義をしながら立ち上がっている際に揺れがやってきて、「おや、地震のようですね。」と発言したことを覚えている。興味深いことに2005年のような急激な揺れは無く、恐怖を感じるようなものでは全くなかった。その分、私も周囲も妙に冷静で、ただ普通に座って揺れが収まるのを待っていた。

お客様に対しては、「このビルは非常に新しいうえに、免震設計もしっかりしているはずなので、ビルの中でじっとしているのが一番安全ですよ。」と発言し、そのとおりお客者様も冷静に椅子に座り続けていてくれた。ビルの免震構造が効いていたのか本当に揺れは緩やかで、難点と言えば、恐怖ではなくて乗り物酔いのような気持ちの悪さだけだった。加えて、揺れが異常に長時間続いたことへの気味悪さも感じていた。今にして思うと、天井からの落下物の心配はあったはずなので、一時的にせよ机の下に潜ることを誘導すべきだったかもしれない。結果的には最後まで何も起きなかったが。

もちろん、この揺れの緩やかさは、首都圏の建物の中では特殊なほうだったわけだが、そのことが分かったのは随分と後になってからのことだ。私の自宅(14階建てマンションの11階)では、地震発生時に食器棚から大量の食器が落ちて大きな音を立てて割れてしまい、妻と長女は絶望的とも言っていい恐怖を感じていたらしいのだが、そのことを知ったのも、地震発生日の深夜になってからのことだ。地震発生直後の私はと言えば、10名ほどの社外のお客様をホストする立場にあり、彼らのことをケアすることが目の前の最重要事項だった。霞が関での揺れが大したことがなかったため、横浜の自宅も同程度だろうと勝手に思い込んでしまい、家族の心配は二の次三の次だった。2005年の地震の地震体験からすれば、もっと想像力を働かせて、自宅の惨状を考えるべきだったかもしれない。

地震発生後の状況に話を戻そう。そのときの私は妙に鈍感なのか冷静なのか、「このままビルの中に留まることが最も安全」と判断することに疑いは無かった。お客様に対しても、ビル自体の免震性の高さを継続的に訴えるとともに、「今外に出ても、交通機関は動いていないだろう」ことを根拠に、もこのままビル内に留まることを薦めた。これも結果論としては大きな問題はなかったが、もっと深く考えるべきだったかもしれないと反省している。お客様たちは、私以上に入ってくる情報も行動の自由も制限されていたため、私の支持に従うしか行動の余地がないのだ。私の判断で彼らの安全が脅かされる可能性さえもあったのだが、そこまでの自覚は無かったと言わざるをえない。

幸いなことに、震災時もビルの電力とインターネット接続は生きていた。トレーニングを開催していた教室には、受講者一人ずつにインターネット接続端末があり、揺れが収まってほどなくすると「震源は東北で、相当に規模の大きい地震だったらしい。」と言う情報も入ってきた。ただし、インターネットから得られる情報は断片的で、震災の全貌を実感することはできなかった。ましてや、首都圏でも十分に大きな被害が出ていることは、その時点では想像だにできなかった。

各種の情報が断片的ながらも入ってくるうちに、もうひとつ新たな問題が発生した。お客様の一人が東北出身で、ご家族が東北にいるのだが、携帯電話の連絡が全く通じないとの事。会社の固定電話をお貸ししたが、これもダメ。そのお客様の顔が険しくなっていくのが分かるが、残念ながらどうしようもない。私自身も横浜の家族に電話をかけても繋がらなかったので、東北はさらに難しかったのだろう。(結局、このお客様が東北の家族と連絡が取れたのは深夜になってのこと。幸いにもご無事だったらしい。)

その後、お客様にはインターネット閲覧を続けていただいたり、テレビを見ていただいたりはしたが、基本的にはそのまま教室で過ごすことをお勧めした。夕方までには、歩いて帰れる程度の距離に家がある一部のお客様は歩いて帰り始めたが、一部のお客様は結果的にCitrixの会議室で一晩を過ごすことになった。そして私も交通機関が動いていない以上は、約30km先の自宅に帰ることも出来ず、一晩オフィスで過ごすことにした。

<次回エントリに続く>